12年ぶりの再会


 夜勤のバイトを終えて仕事へ向かう人々の波に逆らいながら俺は歩いている。
 今日は休みだ。ゆっくりできる。それなのに俺の心は酷く沈み込んだまま浮かんでこない。何が悪い訳でもなく、ただこの十二年間一度も俺の心は癒される事がなかったのだ。
 既に二十九にもなって未だに深夜夜勤のバイトで生活を続ける事への不安感や焦りなど、感じる事もなくただなんとなく生きている状態だ。親よりは長生きしないとな、なんて気持ちだけが今の俺の生き続ける意味なのかもしれない。
 コンビニでおにぎりを一つだけ購入して、普段はあまり近寄らない公園のベンチに腰掛けた。今日は何故か直ぐに帰宅しようという気にならず、ぶらぶらと歩き続けていたのだ。そしてなんだか少し、疲れた気がしたのだ。
 コンビニの袋からおにぎりを取り出し、さっと包装を剥がして一口、おにぎりにかぶりつく。別にコンビニのおにぎりに味なんて期待してはないが、この一口目に中の具まで届かないという調整具合はどうかと思う。
 おにぎりを食べながら何気なく視線を移した先に、中の良さそうな母娘が手を繋いで歩いているのが目に入った。
 ランドセルを背負った少女を見るに、これから登校なのだろう。
 俺ももっとしっかりしていれば、今頃はあのぐらいの子供がいる、幸せな家庭を築けていたのだろうか?
 
 
 俺が彼女と出会ったのは、高校に入学してすぐの事だった。
 中学時代にサッカーをしていた俺だったが、先輩達の態度を見た瞬間やる気は失われ、高校ではやる気になれずにバイトでもするかと考えていたのだが、友人に誘われたのがきっかけでテニスを始めてみる事にしたのだ。
 友人に連れられるまま、テニス部に行った時が、初めての出会いだった。それから彼女には妙に気に入られていたのを覚えている。
 俺の一個上だったその先輩は、学校でもなかなかの人気者で、なんで俺なんかに、と当時はよく思ったものだった。
 そんな日々を過ごして、テニスにも慣れてきた入学から三ヶ月後ぐらいだったか、彼女に告白されて付き合う事になったのは。
 ショートヘアがよく似合っていて、活発な印象を受ける彼女の笑顔はとても魅力的で、一緒にいればいるほど彼女に惹かれていく自分がいた。彼女を喜ばせる為の努力なら、一切惜しまなかった。
 そうして充実した高校生活を過ごす中で、先輩である彼女は一足先に進路の決断を迫られる事になるのは当然の事だろう。
 その時初めて彼女が地元で一番の病院を経営する医者の娘である事を知ったのだ。
 彼女から直接聞いた訳ではない。彼女はその事を必死に隠そうとしていたんだ。彼女には許嫁がいる事などを俺に知られない為に。
 それは彼女が俺を騙していたという訳ではなく、単に両親に俺との事を認めさせてから伝えたいという彼女の配慮だった。単に今の俺が挨拶に行った所で門前払いにあうのが関の山で、話しさえ聞くことなく別れさせられると思っていたからだそうだ。
 それを俺が聞いたのは、突然訪ねてきた彼女の許嫁からだった。彼女の家での立場、俺の為にした努力を俺に伝えてくれた。彼はこのままでは家出から駆け落ちまでしかねないと思ったから俺に会いに来たのだそうだ。最終的に、俺に彼女と別れてくれと伝える為に。君じゃ彼女を幸せには出来ないと伝える為に。
 突然の出来事に何も言えない俺を見て、考えておいてくれとだけ告げて彼は去って行った。
 そう告げられてから数日後に、彼女が全てを明かして来たのだ。決断の時だ。俺は本当に駆け落ちまで考えている彼女をやんわりと制止した後、御両親を大切に思っているのかどうかを確認し、それでも俺を選ぶと言い切ってくれた彼女に別れを告げた。
 俺が言わなければいけない事だ。御両親との確執が生まれてしまってもそこは血の繋がった親子、時間が解決してくれる、なんて安易な期待を持つ訳にはいかないし、なにより俺自身、将来の事なんて何一つ考えていない無力な高校生なのだ。想いだけで彼女と共に彼女のいろんなものを犠牲にして生きていくなんて事できる訳がない。
 あぁ、言ってしまえばただの腰抜け野郎だよ。だけど所詮恋愛感情なんて一時的な感情だ。その時はどんなに強く、大きな想いでも、やがて収束してしまう時がくる。些細な事で壊れてしまう事もある。そんな時に、彼女が全てを失っていていいはずがない。
 幸せな未来しか描けないような幸せな頭を持っていたら、どんなに楽だっただろうか。目の前で泣きじゃくる彼女を抱きしめて、ずっと一緒に、傍にいるよと声をかけられたらどんなにこの心の痛みが和らぐか。
 その後はあんまり記憶にないが、彼女の許嫁に連絡して彼女を迎えに来てもらい、彼女を送って貰った。
 ただ、最後に一発許嫁を思いっ切り殴ってやったのを覚えている。俺の想いはそんなに軽いものじゃないが、よく覚えておけ。ちゃんと彼女を幸せにしろよ、と彼に伝えたのを今でもはっきりと思い出せる。
 それに対して彼はどうしただろうか?頷いてその場を後にした?何も言わずに立ち去った?何にせよ、殴り返してくる事はなかった。
 そうしてその後の俺の生活はめちゃくちゃで、今現在のこの有様である。この出来事だけが原因なんて思わないけど、いつまでもこの事を引きずって情けなく生きてきたのは事実だ。
 
 
 そんな昔の事を思い出して、無駄に意気消沈する俺の前を、先程の親子が過ぎ去る。
「え?」
 その母親の顔に、思わず驚きの声を上げてしまった。それは相手も同じようで、口元を両手で覆って驚きの表情を見せていた。
「ママ?」
 不思議そうに彼女の顔を見上げる少女の声で、彼女もやっと落ち着いたようだ。
「その、久しぶり、ね」
 そう声をかけられて、俺は思わず苦笑いしてしまった。なんだかあの頃の彼女とは別人のように落ち着いて、とても大人びた印象を受けたからだ。いや、まぁ当然の事なんだろうが。
「こんな所で会うとは思わなかったよ。娘さん?だよな。いくつかな?」
 そう話を女の子に向けるのが精一杯だった。
「じゅっさい!」
 元気良くそう答えた女の子の頭にポン、と軽く手を乗せて笑顔を作った。
「そうか。お名前は?」
「まりこ!」
「まりこちゃんは今、幸せかな?」
「うん!」
「そう。それはよかった」
 くしゃっと軽くまりこの頭を撫でて、俺は顔を上げた。その見上げた先で、彼女はまた泣き出しそうな顔をしていた。
「その、幸せそうでよかった。これで一つ、心の重りが外れた気がする。勝手な話しだけどな」
 ううん、と頭を左右に振って、涙を堪えながら彼女は口を開いた。
「今は?お仕事は?」
「あ、あぁ。何とか深夜のバイトで食いつないでる感じだよ。あの後、就職も上手く行かなくて、ね」
「ごめんなさい。私、あの後彼にいろいろ話をきいて――」
「ほら、はやく行かないと学校遅れるんじゃないか?」
 彼女の言葉を遮って、俺は二人にここから立ち去るように促した。
「そ、そうね。それじゃ」
 戸惑いの表情のまま、彼女はまりこの手を引いて歩きだす。暫くして顔を上げると、歩き去る二人の後ろ姿が見えたが、突然まりこは彼女の手を離して、彼女の制止の声も聞かずにこちらへと駆けてきた。
 何事かと見ていると、俺の前で止まった彼女は、握り込んだ手をこちらに差し出した。
「ん?」
「これ。あげるから元気出して」
 そう言って差し出された掌の上には、一粒の飴玉が乗っていた。
「ありがとう」
 その飴玉を受け取った俺は、直ぐに袋を破いて中身を口の中に放り込んだ。
「甘くておいしいね」
 笑顔でそう言うと、まりこは満足そうにうん、と頷いて手を振りながら彼女の元へと戻って行った。
「……」
 その後ろ姿を見送って、俺もベンチから立ち上がって帰路に着く。少しだけ軽くなった心に、自ずと足取りも軽くなるのを感じた。
 さあ、これからどう生きようか――

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